ボランティアをする意義について
みなさん、こんにちは!
特定非営利活動法人国際協力NGO風の会でラオス事業部副リーダーを務めている田嶋勇気と申します。
よく私の周りで「ボランティアはただ自己満だ」とか「やっていて意味があるのか」などといった意見を言ってくる人がいます。皆さんは自分がやっている活動の意義を理解して日々活動を行えていますか。この記事ではボランティアをする意義について私なりの持論を述べたいと思います。
自分がボランティアや社会貢献に興味を持ち始めたのは、中学生の時でした。自分が昔からあまりよい家庭環境になかったこともあり、不幸を乗り越え、人のために生きている偉人の映画やドキュメンタリーが大好きでした。黒人で初めてメジャーリーガーになったジャッキー・ロビンソンや冷戦の解決に取り組んだゴルバチョフ大統領など世界の偉人に憧れを持つ人は多いと思います。
まず、根本的なところから話を進めたいと思います。人間は、生物ならば自身が生き延びることに執着し、利己的な行動を取って当然だと思います。しかし、人間は利他的な行動を取ります。そもそもなぜ人は困っている人を見たら見過ごせなかったり、助けたいと思うのでしょうか?
これは当たり前の話ですが、人間が他者の痛みや苦しみを自分の脳内で再現しているからだと思います。これがいわゆる同情と言われる精神状態だと私は考えます。この同情という感情があるからこそ人は他者のために行動できると思います。この精神状態は人間以外の生物にも見られますね。例えば、猿や犬などが自分のわが子や飼い主にいたわるような行動を見せているビデオを見たことがある人も少なくないと思います。
では、少し話がずれますが、同情という利他的な行動の源泉となる感情が同じだとすれば、人間と他の生物を分ける点は何でしょうか?
様々な意見があると思いますが、私は人間は他の動物と比べて、この同情からの行動範囲がより広いと考えます。より詳しく述べると、自分の同類に対して、手を差し伸べる行動は他の動物にも見られます。しかし、人間は種族に関わらず、しかもそれが敵であっても利他的な行動を取ることがあります。逆に、生存とは反したマイナスな行動を取ることもあります。例えば、縄張り争いや食料の取り合いに関係なく、人は殺しをすることがあります。このような点を考えて、人間は進化上の失敗という学者もいるほどです。これらを加味すると、生存に関わる本能的な行動の枠を超えて、良くも悪くも行動を取ってしまうとこに、人間と他の生物の間に違いがあると思います。
本能的な枠を超えて行動する。私はこれこそが人間らしさだと思います。自分が昔社会に貢献した偉人に憧れを持っていたのも、こういった人間らしい行動に美しさを感じたということもあるかもしれません。ボランティアに話を戻すと、ボランティアも本能的な行動と反した行動だと言えます。海の生き物のために海岸を綺麗にしたり、見知らぬホームレスのために配給をしたりなどこういった行動は生物が目的とする生存という点を加味すれば、全く必要ないことです。この点を考えると、ボランティアという活動は本能的な行動の枠を超えた人間だからこそできること、人間らしい行動だと言えます。
AIやロボティックスなどといったテクノジーが急速に発達する現代において、改めて人間の定義が問われています。この時代においてボランティアという活動は人間らしさを保つために不可欠な活動だと私は考えます。確かにボランティアは自己満かもしれませんし、もっと効率の良いやり方があるのかもしれません。しかし、ボランティアがなくなった世界はいくぶんか寂しく、人間らしい温かみがなくなった世界になると考えます。その点でボランティアという活動が存在する意義はあると思います。
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