ボランティアを意識することなく行った社会とつながる諸事業 (次世代を担う若者を集う)

今回は、風鈴や仏鈴を通して”人にとっての癒し音”、 精密鋳物技術の手法、平安の末期から続く相模国の歴史的鋳物文化等々の研究をしている、NPO法人小田原鋳物研究所様によるご寄稿です。研究を活かし、親子もの作り教室や小学校・中学校での出前授業などを行っています。
HP:https://www.scn-net.ne.jp/~kami27/
NPO法人小田原鋳物研究所
(代) 上島 国澄
1.組織設立のきっかけ
私が仲間と設立したNPO法人小田原鋳物研究所は、教職員時代に自分のやりたい研究を文部省、県、市などの資金助成を得て長年にわたり十分にやらせていただいたこと、教職が自分の性格に合い生徒たちと充実した楽しい時を過ごさせたこと、教職を務めさせていただいたことによりわが子を一人前に育て上げられたこと等々に対し社会に対して感謝の念があり、その恩返しがしたいと思っていました。
私の教職時代の実績と技術力を知る仲間たちが、組織設立の後押しをしてくれたことにあります。
2.活動の目的と内容
1)目的
社会的貢献を行うため以下の事業を行う。
① 相模の鋳物は平安時代からその始まりを見る、そして、鎌倉、戦国、江戸時代と栄え現代に至る。その歴史的鋳物文化を紐解く。
➁ 小、中、高の児童、生徒たちに、実技体験に重きをおいた風鈴づくり講座を行うことにより、物づくりの面白さとすごさを伝え、物づくりに興味関心を持ってもらうための小、中、高校への出前授業を行う。
③ 風鈴、仏鈴を通して癒し音と精密鋳物技術の研究と販売事業を行う。
④ 障害者施設 ”ありんこホーム” と連携し、施設の方の受け入れと社会的復帰の手助け、仕事の供与と販売受託等の事業を行う。
⑤ 梅の栽培を微生物の力を借り、無農薬、有機栽培にて行い食の安全に力を注ぎ、安全、安心なる生産物を消費者に届ける。
(1) 活動内容と成果
① 平安の末期毛利荘飯山(現在の厚木市飯山)から始まり現在に至るまでの、相模の歴史的鋳物文化の歴史を調べ以下の書籍と論文を発表
*相模鋳物の歴史を紐解いた書籍「炎の匠小田原鋳物」を出版」
*神奈川県立図書館発行の”郷土史神奈川台46号”に論文「相模の地における小田原鋳物の歴史文化と今後」と題し寄稿する。
➁ 小、中、高の鋳物出前教室
<銅と錫が溶け1300度の世界を作り出す>
出前事業は退職2年前ごろから始め、今年度までおよそ22年間継続して活動してきた。生徒たちのギラギラ、にこにこした表情は私の元気の源でもある。人が喜ぶこと、社会に役に立つこと、これらをすることにより自分に元気と幸せの波が返ること学ぶ。ボランティアとはこういう関係にあるのだと気づかされる。 |
- 風鈴や仏鈴を通して”人にとっての癒し音”、 精密鋳物技術の手法、等々の研究 < 音 >
音圧が高い周波数3500、7500、10000Hzが出ていて、その周波数の近いところでもう一つの周波数がそれぞれに発生している。その近い周波数がお互いに打ち消し合ったり増幅したりしてきれいなうなり現象の波形を見せている。音は和音として3つの音がきれいに重なって人にとって心地よい音として受け入れられている。 |
周波数の波形(上)
3つの音が重なる音の波形 (下)
<精密鋳物>
試行錯誤の結果細かいところまで湯(金属)が流れ、精密なものができるようになった。
4匹が連なるかにたち(実物大)
卵から生まれた植物の芽
③ 障害者施設ありんこホームとの連携成果
- 障碍者施設から2人を受け入れ7年間以上にわたり、鋳物、梅事業に従事した。そのうちの一人は、代表に次ぐ働きをし、精神的立ち直りと責任感をもって仕事ができるようになった、もう一人は、鋳物の磨き専門に行う技術を習得した。
* NPO法人小田原鋳物研究所から障碍者施設への仕事依頼やその逆も行われ
共存する関係が出来上がった。
④ 20年以上にわたり、微生物の力を借り、無農薬、有機栽培で梅4トンを収穫するに至る。
微生物の力を借りた農法を展開し、気候変動に強い梅の原種杉田梅を栽培する。全国に出荷、需要に追い付かないほどである。杉田梅を生産する梅園として 国内最大の量を誇るまでになった。 |
< 梅 園 >
3.設立時からの組織の変遷
(1)鋳物事業
設立して数年は寄付で活動の経費を賄っていたが、寄付が思うように集まらなくなり一時は閉鎖を考えたが、立ち上げた組織をなくすことは人生において悔いが残ると思い組織の維持に努めたところ、研究所の敷地内にある3000坪の梅園を訪れた三越関係者の耳に風鈴の音色が止まり、三越に15年前に紹介された。
三越バイヤーいわく、風鈴、持鈴がこんなに売れるとは思わなかったといわせたほど売れた。このことにより組織の存続と自立がなしえた画期的なことであった。
その後、音色と風鈴の肌に変化にとんだ色合いをだす技術が開発されたため、掛け台に風鈴を取り付けた作品が出来上がり”美と癒しを一体化した美術品”として売り出したところ、世にないものなので高価だが人気を博し、売り上げは大きく伸び三越関係者の注目をするところとなり、宣伝広告に何回か掲載されたり、お中元の品として売られたり、特別なお客を招待して販売する逸品会にも出店するほどになった。
<作品の一例>
2025年12月発売品
題名「波龍」
鳥取城址 擬宝珠橋の擬宝珠を製作する
戦国時代造られた全長37メートルの堀にかかる橋としては日本最長とのこと、今までの文部省の支援を受けた助成研究3本、書跡、戦国時代の銘茶湯釜である小田原天明釜の復元、足柄市のお寺の擬宝珠の作成等を手掛けた実績が評価されたか、大手建設会社から直接受注をして3次元測定器で得られたデーターを3次元CADにて修正し形を決め昔ながらの着色工法で製作。2022年の日本建設業協会から特別表彰を東京ホテルオオクラにて受ける。一介の教員上りが信じられない快挙であった。今までの活動が幸運を呼んだとしか思えない。 |
復元された 宝珠橋(全長国内最大の37メートル)
(2)梅事業
研究所が立つ敷地は3000坪あり、古木の梅林の中に立つ。コロナで三越の販売に行くことが不可能になったため、梅事業に本腰を入れる。
発足して間もない19年前から、提携先のありんこホームに事業を譲ろうと思い、梅の原種杉田梅の苗木を毎年植えてきた。それが今では70本を数えクエン酸が多く、酸味とうまみで他の梅を圧倒する杉田梅の国内最大の生産梅園となった。無農薬有機栽培と微生物を大切にする農法を20年近く行ってきた結果、全国から梅の注文が殺到し注文に応じることのできないほど人気を博している。人のために植えた梅が今は研究所を支える、利他から発展し、研究所の財源を支えるほどになった。
(3)養鶏事業
当研究所を支えている人たちは、有償ボランティアであり、とてもとても生活できる謝礼は出していない。そのため、後継者は見通しが全く立たず、その打開策として収益性が見込まれる養鶏に進出する。まだ、収益が上がる状況ではないが見通しは明るく、事業全体に魅力を感じ取った若者が一人仲間に加わることとなった。
4.活動を振り返り、そしてボランティアの神髄を見る。
私が鋳物の金型を自由に作れ、工業高校の先生で社会に受け入れられる作品を作り販売できる技を持つものは数少ない。
なぜ社会人を対象に技術講座を展開し商品を生み出す技術が私にあったのか、それをは、40代の初め当時お茶の水女子大の教授であった波多野完治先生の書籍”生涯教育論“を手にしたことによります。
この本の一節に”日本人は若い時のみ教育を受けるのではない、社会人になっても自分が学びたいものを安価にいつでも学ぶことができる教育環境を作り、文化的にも経済的にも豊かな国民にならなければならない”というような趣旨の内容があった。
この一節が何故か心にストーン落ち、教職の立場にある私が社会人の教育にどう関わることができるかを考えた。
当時、最先端技術を駆使し工場の無人化がテーマとなり、あっちの会社、こっちの会社が無人化工場を作ったことが新聞に取り上げられていた。
その技術の主だった構成は、コンピューターで2,3次元の図面を書き、その図面データ-をもとに加工プログラムを作り、ロボットを介してコンビューター内臓の工作機械でプログラムを動かし、材料の搬入搬出、加工まで一貫してできる技術があった。
それを学びたく、県に願い出て1年間民間会社2社に研修に行かせてもらった。
そこで学び、学校に設備が導入され、3年間コンピューターと機械に取り組み、技術を習得した。
そこに巡ってきたのは、生涯教育の研究に力を注がれた先生、波多野完治教授の書籍や文献が国を動かし、国と県のモデル事業としてリカレント型コミュニティースクールの開催の応募要項が学校に届いた。
予算は40時間、20人定員で90万の予算がいた。受講料を含めれば110万の講座である。
今までにない破格の予算が付いた。いかに国が生涯教育に力を入れたかがうかがえるものであった。
専門家を教える、私の頭には緊張が走ったが、ここまで努力したものを吐き出せとばかりにこの事業に応募した。
他校で応募がなく、私の講座内容が認められ、講座開設の運びとなった。
なんとしてでも成功させなければと同僚一人と必死に勉強した。
受講生たちは、全員社会人、学習に取り組む姿勢は真剣そのものであった。
なんとか成功裏に終わらせたいと教える側も必死に取り組んだ。
無事に目的とする製作課題も受講者全員が完成した。
私たちに対する受講生の評価はどうなのか心配していたところ、受講生の代表からみんなの気持ちによるものだとあるものを頂いた。
講座は受け入れられたのだと、涙が出るほどうれしかった。
その後定年まで継続的に続けた社会人講座が自分の技術向上へとつながった。
研究所を運営するための寄付か途絶え、組織存続の危機に立たされた時にこの技術が生き、風鈴づくりにつながった。
梅事業も、コロナ下で三越などに販売に出向くことが難しくなり、鋳物事業の売り上げが激減した、この時期に、障害者施設に収益の上がる梅園を譲ろうと思い毎年植え続けた杉田梅60本が収穫期を迎え、研究所の存続に大きく貢献するところとなった。
この2件からもわかるように、30年以上前に行った社会人に対しての講座、障害者施設にお金をつけて譲ろうとして植えた杉田梅、これらの事業は、ボランティアの意識はしなかったものの、今考えてみれば自分のためではなく、他者のために行った事業であった。
ボランティアを意識することなく、自分の生き方の中で結果的に人のため、社会のためになった。
これがボランティアの神髄ではと今になって感じている。
30年以上前に行ってきたことが今になって研究所の存続を支える力となり、数々の幸せの波となって返ってきている。
私の人生を大きく導いてくれた生涯教育論の著者、波多野先生のお住まいが、私が小学生のころ通学路として6年間通った道路沿いの家に住まわれていたことをつい最近知った。
人生のあやと不思議さ、面白さ、醍醐味を80歳にして多くを味わった。
人のために行った行為が何年、何十年たって自分のところへ帰ってくる。
稲森和夫先生が説く ゛利 他 の 心 ” が根本にあったからこそ成しえたものだと思う。
5.終わりに(若者に向かって)
鋳物事業はテレビ番組”マツコの知らない世界”において風鈴界のベンツと紹介され、音色の良さでは金属で作られた風鈴の中で国内一位となった。また、Eテレ”日本の芸能”のテーマ曲、サントリホール等々で持鈴や仏鈴が楽器として使われ、私が作る作品は誇れるものに育った。
養鶏事業は、若者の雇用を目指し新規に始めた事業だが、今年は南瓜400キロ生産し野菜の一部として鶏たちに供給し、農薬を使っていない自前の飼料にこだわった飼育をしている。
梅事業は、梅の原種杉田梅を生産する梅園としては、国内最大の生産量を誇り、将来的に7トン以上の収穫を目指している。梅まつりでの販売事業も年々拡大している。
農業は、微生物の力を借り、無農薬、有機栽培で人々の健康を守り、鋳物は仏鈴、風鈴、持鈴等の音色で人々の前頭葉を刺激し副交感神経を上げ自律神経のバランスをとる作品として三越で多くのお客様に受け入れられた。
研究所から生み出される作品や作物は、その分野の最高峰を目指し社会に認められる作品に育っている。
研究所の社会的経済基盤はできた。これら事業に興味ある若者が引き継ぎ、さらに発展させてくれることを切に願っている。
人生は実に不思議で面白い、興味深い話もたくさんある。
請われれば講演会などでお話しをしたい、心ある若者は私を訪ね、自分の将来をNPO法人小田原鋳物研究所に託せるか否かを見極めてほしい。
そしてバトンを私から受け取り、人のため、社会のため、自身の幸せを求め大いに羽ばたかせてもらいたい。
NPO法人小田原鋳物研究所
〒250-0206 神奈川県小田原市曽我原241
代表 上島国澄(090-5759-2288)
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