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元ナチ女性収容所ラーヴェンスブリュックの保存活動‼

収容所の写真

はじめまして!JAVOメディアライターの永井です。今回は、ドイツの国際ボランティアに参加してきたので、その活動内容と国際ボランティアの楽しさや、やりがいについてお伝えしようと思います。 

ここでは異文化交流をしながら、負の出来事の学びと保存。そして歴史から学び、世界平和へつなげることをモットーとして活動してきました!

 

1.学習の背景 

 かつての女性収容所ラーヴェンスブリュックは、1939年にフェルステンベルク/ハーヴェルの小さな町の近くに建設された。1945年4月の解放までに、12万人以上の女性と子供、2万人の男性、および1,000人の未成年の若い女性が、いわゆるウッカーマルク青少年保護キャンプから収容された。収容された囚人は40以上の国々から来ており、彼らはSS工場やシーメンス社など、さまざまな部門で強制労働を行った。彼らの日常生活は飢え、虐待、悪い衛生状態によって特徴付けられていた。何万人もの囚人が殺害された。ラーヴェンスブリュック記念館は痕跡や記録を保存し、追悼と研究を促進し、活発な学習と出会いの場を提供している。毎年、記念館との協力のもとに国際的なワークキャンプが開催される。 

 

2.元ナチ女性収容所ラーヴェンスブリュックの歴史 

ここは、ナチス・ドイツの強制収容所の一つ。主に女性を収容していたことで知られています。ドイツの東部ブランデンブルク州のフュルステンベルク市の近く、ベルリンから北に80キロメートルほどの場所に存在していました。総計12万人以上の女性が収容され、6万人以上が死亡したとみられます。      

1938年末にこの強制収容所和建設されましたが、この建設にはザクセンハウゼン強制収容所からの囚人が駆り出されました。1944年末には病人を処理するためにガス室が設置されました。またラーフェンスブリュックの労働分隊は他の収容所へ向け「死の行進」を行わされ、1945年4月30日にソ連赤軍がここに到着した時、女囚はフランス人女性数名だけであったといいます。一方男性収容区には死体400人、生存者400人ほどが残されていて、もっとも生存者達も飢え死に寸前の状態であったといいます。 

 数多くの刑罰や、処刑、更には人体実験など、そのなかでも、パーシヴァル・トライテ博士らによる不妊手術の実験に使われユダヤ人の女性が子供を産めない体にすることを目的としていました。実験に使われた者のうち最年少は8歳の少女でした。ほとんどの女性は実験で死亡ました。生き残った一部の者もガス殺されたとみられ、この出来事は、至極残酷なものでありました。 

 

3.ボランティアでの仕事内容 

元ナチ女性収容所ラーヴェンスブレックの保存活動に参加する。
最初の週に、ラーヴェンスブレック記念館とその歴史を学ぶ。ラーヴェンスブレック収容所およびその後ラーヴェンスブレック収容所の一部であるWaldbaulagerサブキャンプに収容された女性と生存者の伝記について取り組む。 

記念館とその収蔵品の外部でさまざまなメンテナンス作業を行う。 

 

このような国際ボランティアの魅力として、「多様な仲間との交流を通じて、自分自身も成長できることです。活動を共にするメンバーは日本人だけでなく、世界中から同じ志を持った仲間、そして住民が同じ釜の飯を食べ、現地と同じ生活をし、活動に取り組みます。自分自身の積極的な関わりが求められるため、自分を成長させるチャンスにあふれています。二つ目に、「社会を動かす、チカラになることです。国際ボランティアは、いろいろな人が心もカラダもヘルシーに輝き、活躍できる、笑顔あふれる社会を目指して活動を展開しています。ひとりでできることは小さいかもしれませんが、共感する仲間と共に社会を動かす、つくるチカラになれます。 

 

4.現地での生活 

 2週間という短い期間でも、英語を使い現地の友達もできました。ワークショップに一緒に参加して日本の文化を教え、逆にドイツでの生活や文化についても教えてくれました。私が幼いころから興味をもって学んできた「グリム童話」についてお互いの好きな話や、本当は恐ろしいグリム童話の真実について私が学んできたことをもとに語り合うことができました。 

宿泊は元収容所看守の家にある記念館内のユースホステルの共有部屋でしました。不適切ではあるかもしれませんが、収容所には当時の建物がそのまま残っていることもあり、はじめは少し怖かったですが、そこでの出来事を真剣に受け止めていくと、怖いという感情よりもなぜそんなことが起こってしまったのか、そこで収容されていた人たちはどんなことをされてきたのかについて考えるようになっていきました。そこで現地の記念館にある被害にあった人たちの証言を本にしたものや、アンネの日記や、生存者の伝記などを翻訳しながら、少しずつ読んでいきました。 

 

ボランティア募集要項に書かれていた通り(『ブランデンブルク。湖や川の風景に囲まれた小さな町で、カヌー、サイクリング、水泳などのアクティビティが可能。電車でベルリンまで1時間で行くことができ、また、バルト海への電車の接続もあり。』)、このボランティア中に3回ほどベルリンまで行き観光することもできました。まずは、ブランデンブルク門。かつての城塞都市であったこの場所ならではの大きく重厚感あるものでした。夜にはライトアップもされるようで、こちらも見て見たかったですがあいにくその日は見ることができませんでした。そして最も印象深かったのが、イーストサイド・ギャラリーです。はるか先まで続くようなこの壁には、ベルリンの壁が崩壊した際の人々の、喜びや不安のようなものが渦を巻くように、多様な色で表現されていました。この近くの博物館には、東西分裂時代の歴史についてより一層知ることができるような展示や記事がありました。またベルリン大聖堂では、モザイク画や、ドーム構造などビザンツ様式をいっぺんに体感することができました。パイプオルガンの演奏は、講堂内に壮大に響き渡り、その日は穏やかな天気でもあったことからさわやかな風も吹き、その情景はどこか懐かしいものがありました。ドイツは色々なところに歴史的な建造物や遺産があり数日かけてまわり、とも印象に残っています。 

ドイツの夏の気候は、日本に比べて、からっとしておりとても過ごしやすかったです。 

 

5.ボランティア活動 

 記念館とその収蔵品の外部でのさまざまなメンテナンス作業では、はじめは何をしたらよいのかわからずとも、一緒にボランティアに参加した方と教えあい、助け合い最終日までしっかりと行うことができました。作業はとても簡単なこと(ほこり・葉っぱをはらう等)から記念館の壁の修繕など、丁寧さが求められることまで、全体として比較的簡単なものでしたがやりがいはとてもありました。 

 

6.まとめ 

国際ボランティア運動と人類愛を強め、世界平和を目指す。そして社会福祉を改善し、環境と文化遺産を保護し、第三世界との緊密な関係を支援し、全ての社会・性・人種・政治的差別を拒否する理念に掲げるこのボランティア団体で、今回度ボランティアに参加でき、学べたこと(協力し合い、文献に深い関心を持って向き合うことの重要さ等)はこれからの世の中を担っていく私たちは身を持って体験し、知っておく必要があるのだと改めて感じました。ですので、まだボランティアに参加したことのない学生や、参加したことはっても海外ボランティアに行ったことのない人でも、是非お勧めしたいものです。 

 

ボランティア証明書の発行はコチラ【ボランティア証明書発行(全NPO対応) | NPO法人JAPANボランティア協会 (javo.or.jp)

 

<参考文献> 

・ラーフェンスブリュック強制収容所について/ ラーフェンスブリュック強制収容所 – Wikiwand(参照;2023‐08‐02)  

 

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