構造主義と人々が共同で作り上げるもの
寝ながら学べる構造主義
現代人の考え方や常識は,ある時代のある地域における特殊な考え方であり,偏見である.
世界の見え方は視点が違えば変わってきます.1950年代,アルジェリア戦争のときジャン=ポール・サルトルは「フランスの帝国主義的なアルジェリア支配」を厳しく批判しました.フランス政府の言い分には耳を貸しませんでした.この時期に「フランスとアルジェリアの言い分のいずれが正しいか私は判断できない.どちらにも一理あるし,どちらも間違っている.」と正直に語ったフランス知識人はアルベール・カミュただ一人でした.
それが現在では「ブッシュの反テロ戦略にも一理あるが,アフガン市民の苦しみを思いやることも必要ではないか」という意見が街頭インタビューでは模範解答のようになっています.過去から一直線に現在に向かって進化してきたのではなく,現在の考え方や常識はただの偏見であるということです.
構造主義とは次のような考え方のことです.
私たちは常にある時代,ある地域,ある社会集団に属しており,その条件が私たちのものの見方,感じ方,考え方を基本的なところで決定している.だから私たちは自分が思っているほど,自由に,あるいは主体的にものを見ているわけではない.むしろ私たちは,ほとんどの場合,自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」.そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは,そもそも私たちの視界に入ることがなく,それゆえ,私たちの感受性に触れることも,私たちの思索の主題となることもない.
フロイトは「無意識の部屋」というものを見つけました.それは「本人が意識することを忌避している,無意識的な過程が存在している」,「人間は自分自身の精神生活の主人ではない」ということです.
フロイトはこの「抑圧のメカニズム」を二つの部屋とその間の敷居にいる番人という比喩で語りました.「無意識の部屋」は広い部屋で様々な心的な動きがひしめいています.もう一つの「意識の部屋」はそれより狭く,ずっと秩序立っていて,汚いものや危ないものは周到に排除されており,客を迎えることができるサロンのようになっています.そして「二つの部屋の敷居のところには,番人が一人職務を司っていて,個々の心的興奮を検査し検閲して,気に入らないことをしでかすとサロンに入れないようにします.」(『精神分析入門』)
フロイトはこの番人の機能を「抑圧」と名付けました.フロイトが発見したのは第一に,私たちは自分の心の中にあることはすべて意識化できるわけではなく,それを意識化することが苦痛であるような心的活動は,無意識に押し戻されるという事実です.この機制は二種類の無知によって構成されています.一つは,「番人」がいったい「どんな基準で」入室してよいものといけないものを選別しているのか私たちは知らないということ.もう一つは,そもそも「番人」がそこにいて,チェックしていること自体,私たちは知らないということ.
善悪の観念,それは私たちにとって疑いようもない自明のものに思えますが,ニーチェはそれを疑います.「善悪」という判断基準はいつできたのか,なぜ,どんな利益をもとめて誰が発明したのか.
野生の自然状態にある人間は,当然ながら自己保存という純粋に利己的な動機によって行動します.この利己的にふるまい自己保存に努めるのは人間の本来的な権利であると功利主義者は考え,「自然権」と名付けました.しかし,自然権を番人が行使すると,自分の欲しいものは他人から奪い取っていいということになり,絶えざる戦闘状態,「万人の万人に対する戦い」となってしまいます.全員が敵のバトルロワイヤル状態では,一部の圧倒的強者を除いてほとんどの個人が自己保存,自己実現の望みを断たれて終わることになります.つまり,自然権行使の全面的承認は,自然権の行使を不可能にするという背理がここに生じてしまいます.それゆえ人々はとりあえず自然的欲求を断念し,社会契約に基づいて創設された国家に自然権の一部を委ねたほうが,私利私欲の達成が確実であると判断したのです.
つまり,善悪の規範は普遍的意味や人間的価値があったのではなく,「自然権の最大限行使」を目指してできたものでした.利己主義を徹底的に追及したら,利他主義に陥ってしまったというのが,功利主義の道徳観です.
ここでニーチェが批判した20世紀の「大衆社会」とは,人々が群を成して,「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです.これはロックやホッブスが考えていた功利主義とはずいぶん違います.自然権の一部を国家に委ねたのは,「どう行動すれば自分が一番得するか?」を考え,決断を下した結果で,そこには知性があります.しかし,大衆社会の人々はいかにして「均質的な群」を維持するかということを目的にしているので,ある行為が道徳的であるか否かについて,その行為に内在する価値でもなく,その行為が当人にもたらす利益でもなく,「他のひとと同じかどうか」で判断されます.
ここから逃れるためには,自分の外側にいかなる参照項も持たず,自然発生的に,自分自身の内部からこみあげてくる衝動に身を任せるしかありません.
しかし,このニーチェの主張には無理があるのではないでしょうか.この大衆社会から逃れるすべがないというのが構造主義の考え方です.すべての人々は,ある地域,ある属性,ある時代のあるポジションに存在しており,その思考はそれまでの経験や知識やその環境に多大な影響を受けているということです.つまり,ニーチェの言う「自分の外側にいかなる参照項も持たない」とは,「何も考えずに本能で行動するだけの動物であれ」ということか,この人間界には存在しえない幻想を語っていることになると考えます.
私たちは歴史の流れを,「いま,ここ,私」に向けて一直線に「進化」してきた過程としてとらえたがる傾向があります.フーコーはこの人間主義的な進歩史観に異を唱えました.というのは,現実の一部だけをとらえ,それ以外の可能性から組織的に目を逸らさない限り,歴史を貫く「線」というようなものは見えてこないからです.例えばフィギュアスケートの織田信成選手はよく,「織田信長の末裔だ」という風に言われますが,織田選手には母方の祖先もいれば,母方のさらに母方の祖先もいます.一言で織田信長の末裔とは言えないはずなのに,それ以外の可能性から目を逸らしているから,過去から一直線に織田選手に繋がっていると考えてしまうのです.
語られなかった事実,選択されなかった歴史が無数にあることを忘れてはいけないとフーコーは主張するのです.
バルトが主張したのは,この世にあるものはすべてある一人の創造物ではなく,「織み上げられたもの」だということです.例えば一つの小説を書いたのは作者ですが,そこにはほとんど無数のファクターがあります.主題や文体,紙数の指定,同時代的な出来事,他のテキストへの気遣いと競合心,これらが絡まりあって小説ができているのです.WikipediaやリナックスOSも無数の人が自分の知識を注入して全員で作り上げたものです.小説などの個人的創作物と考えられてきたものでも,実はWikipediaなどと同じように織み上げられたものであるということです.
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